4:青雁皮紙の蘇り

青雁皮紙の記録

  康煕56年〔1717年)欽兆鳳(キンチョウホウ)等が芭蕉紙を作りその製法を宮古、八重山、大島に伝えたが当時は殆ど漉かれ ていなかったようである。雍正8年〔1730年)紙漉きの蔵元(行政庁)として八重山には石垣紙漉方と西表紙漉方(紙漉役所)が設けられているがこの頃から豊富な原料を用いて各種の紙が漉かれたが,生産費が嵩み、原料も本島から購入していたためコスト高となっていた。

 そのうち製紙が本格化し生産単価の引き下げに成功し、雍正9年(1731年)八重山紙漉方例帖(カミスキホウレイチョウ)を作成 し生産費の高騰を防いだ。(琉球の抄造紙。糸数兼治著。沖縄文化研究3.法制大学沖縄文化研究所紀要3.1976年)。

 成豊7年〔1857年)の翁長親方八重山島規模帖(石垣市史叢書7)の記録によると八重山ではカチ木の栽培が十分行われていない為百姓たちは不足分を買って納めている状態なので,空閑地にカチ木を植えさせた。

 したがって島で用いる紙はカチの木を石垣、西表の二 箇所で漉いて使用するようになり、蔵元で用いる紙はようやく間に合っていた、その他は大和紙を高価で買い入れておるので、今後は古見にも紙漉所を建て役人に管理させ、島の使用分に差し支えないよう取り計らい、筆算人の中でも自由に家業として手広く漉き出し、上納分以外は必要な所に売り出す事を認めている。

 成豊8年〔1858年)八重山紙漉方例帖の内容は実情に応じて時々改変されたが、それにはいちいち王府の許可が必要であり、成豊8 年(1858)の紙漉方例帖には、百田紙、芭蕉紙についての定めが記載されているが、青雁皮紙の記載は無くその他の紙となっており,青雁皮紙などは公用紙以外の紙として民間に用いられていた様である。

 18世紀中頃の古文書に八重山に自生する青雁皮を原料とする紙が現れるが、公的には使用されておらず公的記録もないが、市立博物館に 保存されている八重山の旧家の和綴本や八重山庶民のメモ等の書類を見ると青雁皮紙が使用されていたことが判る、しかし、いったい誰が 何時頃青雁皮紙を漉いたのかは全く判らない。

 琉球王朝がもう少し和紙についての知識があったら、この高級和紙の献上を迫ったことだろうが、幸か不幸か青雁皮紙は幻の紙とされて現在に至っている。明治30年(1897年)紙漉き蔵元は廃庁し、内地から来た竹下氏が紙の製造販売を行っていたが何時までかは不明だが廃業した。

 太正11年(1922年)沖縄県庁は高知県から浜田竹次技師を招聘し約2年程紙の専門技術の講習,指導を受けさせ登野城の森田永雄氏もその講習を受け石垣紙屋川(カビイヤカーラ)の傍に小屋を建て首里の儀保町から経験者を招聘し青雁皮紙を製造販売したが大正14年に廃業した。

 浜田技師は石垣にある青雁皮の調査も行い石垣に青雁皮が豊富に自生していることを知ったが、原料の楮は高知県から仕入れ、八重山から青雁皮を購入しパルプ主体の書道半紙の補助剤として使用し、ノリ(ネリ)(紙漉きの粘剤)は黄蜀葵(トロロアオイ)が高価なため青雁皮の葉がネリとして強力粘剤であることが判り青雁皮の葉を使用していた。又、青雁皮の葉は流し漉き用の粘剤として沖縄本島の糸満の人々も売っていた様である。

 昭和21年〔1946年)終戦後は極度に紙が不足していたので、台湾から引き上げてきた森田永雄氏は再び昔の紙漉き道具と技術を利用して紙の製造販売を行い、市町村の戸籍用紙はその紙を用いたが洋紙が出まわったために1949年廃業した。 その後は和紙、殊に青雁皮紙の事は忘れ去られてしまった。


 リバイバルのはしり!

 昭和48年に西表西部診療所に赴任した故下田正夫医師は西表の美しい自然環境を生かし、住民が生きて行くために、 農業のほかに手作り工芸を起こそうと考えており、出来ればそれが老人や障害者のリハビリテーションにも役立たせたいと思っていた所、当時石垣の八重山博物館長だった玻名城康雄さんから、「西表で昔行われていた紙漉きも取り上げたらどうだろうか?」とのお誘いがありました。



   西表浦内川河口のマングローブ林



  西表の租納(ソナイ)や古見(コミ)には、八重山蔵元(政庁)の紙屋(カビヤ)の跡があり、その盛んな様は租納の殿様節にも 歌われております。

 「紙漉きの具体的方法は紙漉方例帳(カミスキホウレイチョウ)に伝わっており確かな事だ、今出来ないことはない」と言われ、この事がきっかけとなって西表の青年達と青雁皮の抄造を始める事となりました。

 そこで紙漉きに必要な簀桁を高知 の有光弘範さんに注文したところ、これが内地の和紙関係者の話題となり内地の新聞にも掲載されました。

 昭和51年末(1976年)に阿部栄四郎さんの弟子である勝 公彦さんと当時文化庁の顧問であった柳橋 真さんなど三人が西表に来島し青雁皮紙抄造を始めて行い西表の人々に青雁皮紙の抄造を教えた。

 その後、西表では小中学生の卒業証書を毎年青雁皮紙で漉いているほか故シスター金光が 細々と青雁皮紙を漉いており、石垣市立博物館では毎年3月に沖縄本島から紙漉きの人を呼び青雁皮紙で終了証書を漉いているが、年1回紙漉きを行っているにすぎない。

 当時、西表に在住するシスター金光さんは、和紙抄造を研修するために埼玉県紙業試験所に1ヶ月間和紙の勉強に行き、 一方、下田先生は石垣に「わしの里」を創り障害者に青雁皮紙の抄造を行わせようとしシスタ ー金光さんの協力のもとで紙漉きを行ったが、色々な事情で中断してしまった様です。



 こんどは自分の番!

 私は平成2年に東京の医科大学を定年退職し、教育、診断、研究で時間に追われる生活から開放され、今後は自分でやりた い事を自由にしたいと思い、石垣の友人を訪ねた所、偶然、下田先生を紹介され”わしの里”を知り毎月ボランティアのつも りで東京から”わしの里”を訪れるようになった。

  しかし、”わしの里”では肝心の紙漉きを行っている様子はなく、下田先生に紙漉場を見せて欲しいとお願いしたところ、紙漉き場は埃にまみれておりました。これには何か事情がありそうなので、それでは私が紙漉きを習いお役に立てれば幸いと思い、友人の紹介で西表のシスター金光にお願いし、毎月西表に通い青雁皮紙抄造法を習うことになったのですが、まもなく不幸にしてシスターは病に倒れ九州の病院に移ってしまいました。

 何しろ突然のことで、しかも習い始めてからの期間も短く紙漉きは未熟なので、昔から紙漉きを行っている内地の古い紙漉場を何箇所も尋ねまわりました。

 そして、和紙抄造に関する基本的な事を教えてもらいましたが、西表は離島であり何かと不便なので、工房を石垣に移すことに し島の中で紙漉きに適当な所を探したが条件が難しく諦めるところであったが、当時石垣に新しく設立された老人保健施設が施設長を探しておったので紙漉き場を作る条件で施設長に就任した。

 しかし就任してみるとると実情は私の考えていた福祉施設と全く異なる運営であり、又、入所している老人の診療に追われ全く紙漉きは出来ず、やはり2兎を追うものは1兎も得ずなのだと判り1年間で退職した。

 退職が受理された後市長に挨拶に行き老人保健施設長を退職し内地に戻る事になったと話したところ、先生は石垣の為に尽くされ、殊に青雁皮紙に造詣の深い方なので地場産業になりうる仕事であるから市有地を使用して青雁皮紙の研究を続けて下さいと言われ、市有地を借用し研究施設を設立した。





中央がシスター金光、左が私


シスター金光が青雁皮の叩解を行っている写真


 昔も八重山で青雁皮紙が漉かれていた!

 
 
私が青雁皮紙に興味をもち勉強し始めた頃,多くの人々は青雁皮紙は本島から購入したのではないかといわれたが、 八重山紙漉方例帖を調べてみたところ、実際百田紙,杉原紙の紙の名前は記載されているが青雁皮紙の名前は書かれておらず、ただ八重山ではその他の紙も漉いていることが判るだけで、青雁皮紙が貴重な和紙である事を知らずに漉いていたいたのである。

 青雁皮紙そのものは、内地では滅びつつある雁皮紙と同様の特徴を持っており貴重な紙である事が判るにつけ、何とかしてこの疑問を解決しなければならないと思い色々と調べてみた。

 先ずは石垣市立八重山博物館に行き八重山紙漉方例帖を解読してもらったが、やはりこの本には青雁皮紙の名前は記載されていないが、博物館に保存されている古文書の中には確かに表紙は楮からなり虫食いが激しいが、中のページは確かに青雁皮紙からなっている本や、民間人が竹ヒゴで編んだ簾を用い流し漉きで漉いた青雁皮紙を使用し色々なデザインを書いた青雁皮紙を見ることが出来ました。


青雁皮紙からなっている本
(石垣市立八重山博物館提供)



青雁皮紙にデザインされた紙
(石垣市立八重山博物館提供)





  また、八重山諸島を中心とした古文書調査報告書(沖縄県教育委員会。沖縄県文化財調査報告書。 第35集。昭和55年度) によれば調査した古文書612冊の内500冊(82%)は楮で漉かれており、芭蕉紙は19冊(0.03%)、青雁皮紙は8冊(0.013%) であることが判りました。

 その8冊はいずれも石垣の旧家に保存されているもので、年代は成豊9年(1859年)から光緒10年 (1884年)にわたっており、いずれも公文書として書かれたものでなく、本島に伺候したときに書き写したものでした。

 この事実の意味する事を考えてみると琉球王朝では公文書として百田紙、杉原紙のような楮からなる紙を用いており、沖縄の実用紙は楮が高価であるのでそれに変わる芭蕉紙を開発したが、芭蕉紙は楮に比べて大変な手間がかかる紙であり,しかも和紙の特徴は持っておlらず、又、経年変化も認められる。

 青雁皮は沖縄本島にも自生していたようであるが数も少なく紙の原料として考えられていなかったようである。八重山の人々はおそらく楮は公用紙として用いていたが、自分たちは八重山に豊富に自生している青雁皮を和紙の材料と して用い流し漉きを利用して青雁皮紙を漉き日常生活に用いていたのではないかと推察される。

 沖縄は和紙の歴史が短く、しかも楮を使用した紙が和紙であると思っており雁皮紙の価値は知らず、八重山の人々が楮の代わりに身近にある青雁皮を利用 して紙の王様とも言える青雁皮紙を漉いていたことは驚嘆に値する。これを内地の人が知っていたら内地と同様に青雁皮は絶滅していたのではないかと思われる。

 和紙の伝統が無く薩摩藩からむりやり漉かされていた楮に比べてもっと高価で貴重な雁皮を、八重山の人々が内地の伝統 的な流し漉きを利用して青雁皮紙を作った事は画期的な事件であったのであるが、不幸にして和紙についての知識が乏しい離島であるのでその価値を知らずに過ごしてしまったのであろう。

 日本では明治27年(1894年)から謄写版が実用化されたが、謄写版用紙の様な薄くて丈夫で鉄筆で書くことに耐えられる紙は雁皮紙でなければならず、謄写版が普及するにつけ、当然内地産の雁皮では需要が追いつかなくなったとき、前に述 べた浜田技師等の見聞から、八重山に青雁皮が豊富に自生していることを思い出し八重山に注文した。

 当時大量に八重山から高知に青雁皮の皮が送られ使用された事は青雁皮が内地産の雁皮と同様の価値があると知っていたからではないかと思われ、現在でも八重山に住む高齢の方々は幼い時に小遣い銭稼ぎに青雁皮(かびの木ー紙になる木)の皮を剥いで内地に送ったと言っている。

 いずれにしても、この隠された貴重な文化財とも言える和紙の原料である青雁皮を保存し、
青雁皮紙八重山にありと誇りに思い保存し育成の道を作る事が八重山の人々に課せられた課題であると思われる。


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